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歴史探索ウォーキングで開運祈願

館跡

堀越館跡

本居館跡のある白河庄は下越地方の阿賀野川右岸に広がる荘園で鳥羽院政期に摂関 家領として成立した荘園であり、阿賀北(阿賀野川以北の新潟県)地域の最南端付近に位置する。br /> 白河庄は平安時代末期城氏が本拠を置いた地域で、鎌倉時代には伊豆の関東御家人の大見氏が領した。br /> 白河庄は、3地域(水原、山浦、安田)からなり惣家大見氏は分家し山浦上杉氏と縁のある上杉頼方が兄朝方の遺児幸龍丸を抱え込み山浦の上杉頼藤、長尾朝景の支持を得て在京の守護となる。br /> 越後在地の有力者の守護代長尾邦景の不信感は強く守護頼方と対立する様になる在京の頼方が将軍、有力守護の支持を取り付け、それに対し邦景が対立関係にあった鎌倉幕府との関係強化に努めた。br /> その対立が阿賀北の国人衆を巻き込んで応永の大乱が勃発した。br /> 応永30年(1423)頼方は、将軍義持より邦景治罰の御教書を受け、これにより山浦上杉頼藤、長尾朝景が挙兵。頼藤らは、南下して邦景方の三条城を包囲した。br /> これに対し、邦景は阿賀北国人衆の切り崩しを図り、黒川氏、加地氏新発田氏、白河庄の武士が帰郷してしまう。このため、笹岡城に篭っていた中条氏は孤立し、これを支援するため三条城の包囲を解き北上し、堀越の要害を落とし、笹岡城の中条氏を救った。一端戦乱は終息したが応永32年(1426)再度、戦乱が勃発。br /> 頼藤は中条氏と組み阿賀北国人衆と組んで三条城攻めを行うが、またしても新発田氏、加地氏の裏切り邦景方について、結果、上杉頼藤、長尾朝景、中条氏は敗戦し京でも頼方の信頼が薄れ失脚した。応永の大乱で守護代長尾邦景が勝利し、守護には朝方の子である房方がついて政局は安定した。

  堀越館跡
分田館跡  

分田館跡

地方史によれば分田七郎俊長の居館とされている。(分田郷土史)
また、居館の西側には内山王遺跡(中世)、北側に新明浦遺跡(古代〜中世)の遺跡が近接しているが、ほ場整備工事でかなり撹乱されている事が予想され、同様にその場所も今回の踏査では何も遺物は確認できなかった。
周辺には庄司田、鍛冶屋敷、寄りの越、囲いの内の、通称名、地名が残るという。
黒鳥伝説は壮大な越後平野のドラマで、黒鳥伝説の原本は越佐研究第32集の中で、「越後名尽」という講談説話が江戸時代の安永年間(1772〜1780)に加茂の俳諧師・左月という人が作者とされ、その頃流行した講談が現地の中世の遺物、遺跡など事実と融合して黒鳥伝説が流布したとされる。

分田宿場町 1823年〜

『分田』という地名は、応徳元年(1083年)分田七郎俊長の領地となったことに由来しています。
分田七郎俊長とは阿賀野川の流域で旅人や良民を苦しめ、横暴の限りをつくしていた悪党共を制圧した軍功により、納代城(分田の城)を与えられました。
その後、乱世に領民の暮らしを良く守り、郷土を平穏にした名豪士として現代まで語り継がれています。
その分田七郎俊長の戦勝祈願の寺として『玉泉寺』が開基された。
分田は近世(江戸時代〜明治時代)には、三国街道の江戸より村上までの山通りとして発展した。人馬が往来し、海辺へ行く人と山手へ行く人との中継地で、交通の要として繁栄していた。
街道沿いには宿が整然と続き、何軒かの地主が昭和中期まで黒の板塀を巡らしていた。
宿場の見取り図によると街道の入り口には木戸を巡らされ宿場の街屋がられていたことがわかる。
宿場には人馬の伝送や宿泊の世話をする宿役人が置かれ公用で通行する武士や名所旧跡を廻る農民、町人たちで賑わっていた。
明治11年(1877年)明治天皇の北陸巡幸の経路となった。また分田では阿賀野川の清き伏流水で享和年間(1801年)より酒造りが盛んで三軒もの酒蔵があった。
今も分田の家並みの様子や通りのたたづまいに、近世期の宿場の面影と分田の歴史をかいま見ることができる

  田宿場町 1823年〜

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田宿場町 1823年〜 田宿場町 1823年〜 田宿場町 1823年〜

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