トップページ > 歴史探索ウォーキングで開運祈願 > 古城跡

歴史探索ウォーキングで開運祈願

古城跡

水原城跡
水原

水原館は白河庄水原にある。平坦地に作られた平城で城主水原隠岐守憲家は上杉謙信に仕えた。 その子水原左近将監平本信は上杉景勝に従い、天正10年、新発田因幡守重家軍と交戦中に戦死。
その後、上杉景勝は細越将監が在番した。天正13年9月に笹岡城主酒井信佐ェ門、下条城主下条采女、雷城城主丸田周防守、安田城兵とともに水原城を攻め、落城。
その後、天正十四年浦佐城主大關常陸介が姓を水原と改め水原城主となる。
慶長3年(1598)上杉氏が会津に移封になると水原を治めていた水原氏もこれに従い会津へ移った。
これに替わり加賀国から溝口氏が新発田に移封され新発田藩が成立。その後、溝口氏の二男、三男、四男に分割統治し財政基盤を安定させる政策をとった。
江戸幕府は年貢収入が安定的に確保できる場所に代官所を置いた。水原もそのひとつで、延享3年(1746)新発田藩から分かち、直轄領地として水原代官所を設置。
年貢収入の他に藩の監視や情報収集も兼ねていたらしい。
代官は初代の内藤十右ェ門から篠本信之助まで22代、慶応4年(1868)の会津藩預かりまで約120年間続いた。少ない30人位の人員で「地方」「公事方」に分かれ租税、出納、民政一般、治安維持まで多様な仕事をこなした。

  水原城跡

水原城跡

拡大

笹岡城跡

笹岡城跡

拡大

 

笹岡城跡
水原

主郭と現在寺院境内のある曲輪は連絡道路で結ばれている。
城跡の東側を「笠ノ山」と呼び出丸があったと伝えるが詳細不明である。採集遺物は青磁端反碗、珠洲焼擂鉢(六期のものと思われ口縁内面に波状の櫛目文があり全面に卸目がある)
他に越前、染付け、石臼がある。概ね14〜16世紀頃の所産と考えられている。
発掘調査は行われていないが昭和62年に本格的な測量調査が行われ50箇所余の曲輪が確認されている。縄張りは、戦国時代の館城を想定できる特徴を有すると思われる。笹岡城は貞和年間(1345〜1350)篠岡中将丞資尚の築城である。
応永の乱には守護方の上杉、長尾方に呼応して中条房資(奥山庄・胎内市)が派兵し笹岡城に籠城した。享禄〜弘治の頃には山浦源吾国清が城主となる。
その後、上杉景勝の家臣今井源右衛門が在番となる。
天正6年(1578)酒井新左衛門黒金宮内が在番、天正8年新発田重家の反乱で上杉方の最前線基地として攻防があったが新発田氏に攻められ落城。
「十朗杉」現地説明板より天然記念物(笹神村指定文化財)
1、名称 十朗杉 樹齢約450年位
1、測定 高さ約24m、周囲6.2m
1、所在地 この地は中世末期の笹岡城である。
1、名称由来「十朗杉」の他に「城桜杉」「女朗杉」の呼称があり口碑伝説による名称についての由来がある。

安田城跡
安田

白河庄は上条(安田)、下条(水原)に分立し孫の時実(初代安田氏)が当地を領した。他に惣家大見氏の庶子家水原氏、水原氏から山浦氏が庶子家に別れ、南北朝から戦国時代を通じてこれらの有力国人によって白河庄が支配された。
安田城は中世には安田氏の居城であったが中世末の天正2年(1574)「安田氏給分帳」によると安田氏は伝来の白河庄のほかに北蒲原郡、中蒲原郡、南蒲原郡にも領地を持っており家臣にその一部を与えている。
家臣は「給分帳」によれば109名という。慶長3年(1598)上杉景勝が会津移封になると安田堅親(15代)も上杉領の仙道に移った。
安田はその後村上藩領となり知行7千石の吉竹右近が在番した。
元和4年(1618)村上氏除封後、村上藩主となった堀直竒(ほりなおより)の支配になり一国一城令(1615)が公布されると安田城は元和8年(1640)破却された。
寛永16年(1640)堀直重(後に直時に改名)が3万石を与えられ安田藩主となり、正保元年(1644)その子直吉(なおよし)が安田、笹岡方面と村松藩の領地替えを認められ、村松に陣屋を設置し村松藩と改めた。

  安田城跡

安田城跡

拡大

鉢盛城跡  

鉢盛城跡

千坂氏の居城。 千坂氏は越後国守護上杉氏の家老であり、千坂対馬守景親は上杉謙信に従って川中島合戦に従軍、天正六年−八年(1578-80)の御館の乱では景勝に与し、武田勝頼との同盟締結の使者となった。
慶長三年(1598)上杉氏の会津若松城移封に従い、大沼郡内で5500石を知行した。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦では伏見城の留守居となり、戦後の和睦交渉で活躍し同八年(1603)には米沢藩初代江戸家老となった。

折居見張り城跡

千坂氏の見張り居城。
天正六年−八年1578-80)の御館の乱では景勝に組して新発田城の見張り居城として重要な位置にありました。

  折居見張り城跡

拡大

笹岡城と鉢盛城と折居城と新発田城

拡大

 

笹岡城と鉢盛城と折居城と新発田城
笹神

位置関係が、地図ではっきり見てとれます。
笹神村史 いちょうの木の枝より

要害城跡

下条平三郎家久が下条の地に居館を構えたとあり、1499年(明応8年)越後国頚城郡府内城主長尾為景の家臣下条駿河守貞直が駒林村を開拓し、水原氏との姻戚関係の発生等の文献がある。
現在の駒林地区農村公園付近を、要害と呼び下条氏の居館跡と伝えるが現況はすっかり耕地整理された水田と公園敷でその面影を追う事はできない。
正式な報告書は未発刊であるが、平成14年度に当時の京ヶ瀬村教育委員会で確認調査が実施され、居館跡と思われる付近から珠洲焼片口鉢、越前焼、中世土師器、近世陶磁器、火縄銃の鉛弾が出土した。検出遺構は溝状遺構3条、土坑15基、ピット51基、井戸状遺構が検出されている。
出土遺物の中に13〜14世紀頃の珠洲焼があるので、先述の下条氏開拓以前から何らかの形で人の活動の痕跡がある可能性が高くなった。

  要害城跡

拡大

下條城跡 館ノ越  

下條城跡 館ノ越

伊豆国(現在の静岡県)から源頼朝の命により地頭として派遣された大見一族の大見家久が文永2年(1256)、この下条に館を構え下条氏を名乗ることとなりました。館は、安野川の自然堤防上にあって丸の内と呼ばれる内部と堀を隔てた両側に外郭からなっていたと考えられます。
織田氏と上杉氏の争いである、天正10年(1582)の新発田の乱では、上杉景勝方の前線拠点として、新発田重家と度重なる攻防を繰り返し、笹岡氏・安田氏・水原氏の各館と共に阿賀北防衛の重要な役割を果たしました。
下条氏はその後、代々「采女」(官職名)を名乗り、歴史上有名な川中島合戦にも参陣して武功を上たと伝えられています。
上杉氏の会津国替えに伴い、四千七百石で二本松城主、その後米沢移封により長井に移り鮎貝城の城代(城の管理役職)を勤め、以後侍組・福島奉行など米沢藩の要職につきました

下条氏に関連する文献

下条采女は天正年間の新発田氏と上杉氏の合戦で軍功により、新発田氏の出城であった五十公野城を落城後に上杉氏より賜っている。
※新発田滅亡につき「伊地峯城」をば下条采女に下さる。

此時、駿河守になされ、下条の地をば、
下条の舎弟安田筑前守に御加恩下され、柴田城をば、
小倉伊賀守に之を下さる。(管窺武鑑)
北越太平記

下条駿河守も如何様なる働これあるか存ぜず候。会津へ所替の時は、二本松城の置かれ候。只今下条治郎右衛門と申すものの先祖

  下条氏に関連する文献

下条氏に関連する文献

拡大